子どもの発達

環境とは何をさすのか

子どもの発達について、様々な角度から学びながら、臨床的に実践を行ってきました。
子育ても含めれば10000日以上、子どもに関わって過ごしています。
やや抽象思考的に精神発達について少しまとめてみました。




子どもの発達を専門的に語ろうとするとき、生態学的システム論を無視することは現実的ではないと思います。

主に、心理学等の領域で採用されており、様々な要素を包括して子どもを捉え、援助することができるシステム論です。

一方、日本の保育教育領域で発達心理を考える際、環境にどこまでを含めるのかということやそのバランスについて、

あまり整理されておらず、現場に浸透していないこともあり、やや机上の空論化している感もあります。

また、保育指針やカリキュラムにおける「環境構成」という言葉もまた、曖昧に捉えられている部分があると感じたことがあります。

集団保育と家庭保育における環境




環境構成は重要であるが、それはビジョンがある場合であると考えています。



そして、先述のシステム論における「環境」という言葉の持つ意味、視点や提唱は、受け取る時代や文化によって、異なるものになることが考えられます。


現代の集団保育・教育においては、けがをさせないために、活動を抑制する必要もあります。

また、環境設定された中での遊びの目的化に疑問を持つ保育者もいると思います。




昭和から平成中期ごろまでは、家庭保育における母親に課された課題や役割が多く

振り返ってみると本当に大変だったとしか言いようのない時代でしたが、

子どもを沢山遊ばせることは多くの家庭保育において行われていたと記憶しています。

自身が子どもの頃も自身の子どもたちも、遊びの時間が保障されており、

それは子どもの環境としてはよいものだったのではないかと考えています。

ただ、遊びとは何を指すのかということに関して、各家庭で多少異なっていたことはあります。



北欧の子育て環境では、出産前から母親を支えるシステムが構築されており、

子どもに何か問題が起きた際に、同時に母親を手厚く支えるという文化が根付いており

学力トップのことを抜きにしても、善いシステムであると言えるでしょう。

出産育児経験者からの所感としても、支えるべきは母親であり、特に出産前後は心身ともに大変なことも多いのです。



精神発達とは何か


専門分野では、発達という概念が構造変化(分化、統合)として捉えられています。

主に発達とは可視化できるもの(認知)と捉えていると感じます。数値化できないものは発達や病としてみなしていないのですが、

「不可視」なものは、存在しない・幻想・虚構などネガティブな了解がされていること、

更に、人間にとって重要な精神発達の時期が、現代日本では集団保育中心になっているということが大きいのではないかと思います。

獲得されるものは具体的である必要があり、可視化できないものは、わかりにくいからです。



子どもの生活において、「皆一緒」(均一)が良いことであるという環境では、人と違う自分の意見を言うことは「悪いこと」になります。

環境に、情熱を育成する文化や活動が含まれないことは、精神発達の機会の不足を意味し、補う必要があるかもしれません。

精神が発達しないことは、限りなく「AI(人工知能)的」な人間を意味するでしょう。




エリクソンの発達課題と(乳)幼児期の発達に関する仮説(自)~invisible

 臨床を通し、E.エリクソンの心理社会的発達理論を用いて幼児期の精神発達を少し語ってみたいと思います。

理論自体は人間の一生がモデルになっているものですが、人間になるために大きく発達を遂げる誕生から幼児期へ応用して考えます。

具体的に一部を簡素に掲載します。(エリクソンの社会的発達課題8つの段階より抜粋)

0-6歳の子どもの能力や発達の大きさは、今に始まったことではなく、科学的にもあらゆる証明がされていますが、

この表は、自身の臨床及び学問的見解、経験知・暗黙知と照らし合わせて考えるときにも無視できない自身の仮説です。
(環境輻輳説、生態学的システム理論等を無視するものではありません。)



臨床(保育・教育)に当たる際、特に着目したのは「課題」の部分でした。


例としては、4歳児における同一性課題を無視した場合、依存や搾取というネガティブな内面が生じやすいのではないか等というものです。
(個人差があるため、安易な一般化は否定しておきます。)


更にいえば、パーソナリティ障害との関連も考えられます。

そして課題達成方法は、教育(または遊び)を通して行うことが最適ではないかと考えます。
(自身は、主に音楽教育とモンテッソーリ教育を中心としています。)


尚、一人一人の子どもを観察し、課題を遂げるよう努力するためには

臨床者の自己一致性が重要であろうと予測します。(一般論不可)


そして、自身が臨床にエリクソンの発達理論を用いた最大の理由としては、

獲得されるものが全て不可視なもの「invisible」であるということです。

これは、「認知(visible)」の見解や視点から理解することはほぼ不可能です。


不可視と音楽は相性が良く、音楽は自身の特技分野であったことも大いに関連しています。

臨床に当たる際、最も必要なのは、これらの不可視な獲得項目に対する理解度と人格(または態度)であろうと考えました。



量(visible)より質(invisible)へ ~臨床より

 
更に、「0歳から6歳ごろまでの発達とは、積み上げではなく変化変容することである」という仮説的結論を持っています。



これは、臨床と学問から出した結論ですが、何ができるかではなく、どのようにできるのかが精神発達の極意であり

量ではなく質であるということです。質とは精神を指します。

例としてピアノ教育を挙げると、何が弾けるかというのは量的で可視化の部類になります。

どのような音色でどのように弾くかというのは質的で不可視の部類になります。

この不可視の部分が無視されることによって、人間力よりもAI演奏(自動演奏)という結果をもたらします。


形態や数値、即ち生物学的変化を発達とすることに対して、

言語獲得前からの内面(精神)という数値化できにくいものの変容が人間発達であるということは、プラトンの時代から歴史が語っています。

精神の発達(人間教育)には音楽と文芸教育がふさわしいというものです。(「国家」)





人間の発達において、「育児法をこうすれば、こうなる」「子育てをこうしたから、こうなった」という積み上げ型理論のみで語ろうとすることは、

先述の数値でのみ判断することと同様に、人間をAIと同様に知能としてのみ扱っているということになります。




ここでいう精神は、spirit、「無意識」「潜在意識」「情動」的なものです。

(「こころ」「気持ち」は、思考や理論が働くものなので、ここでは精神には含まないとします。)





人は、自分で変化変容(発達)、自己教育する力を具えていると多くの発達分野研究者・心理学者等が結論付けていますが、

環境によってはそれが見えなくなってしまう(盲目)ことは当然考えられます。


AI(人工知能)的な人間は、穏やかだけれど潜在的(意思決定の9割ともいわれています)に思いやりや情熱を持っていないため、

次世代を担うこと=利他は色々な意味で難しいのではないかと考えます。

自分の利益のために他者を利用しても罪悪感を感じない人間は、サイコパス(良心を持たない)ですが、

AIをサイコパスとすれば、人間側に潜在的良心(利他・0-6歳)が強く求められています。(国連AI決議)



また、質を語る際、パーソナリティ障害(DSM-5)を無視することは現実的ではないと考えています。



精神の発達と童話

 最後に、子どもの精神の発達が織り込まれたファンタジー童話を、紹介したいと思います。


 「青い鳥」 著者 メーテル・リンク(ベルギー・1862 - 1949)


私は幼稚園児の頃、このお話が好きで、絵本?を家で何度も繰り返し読んだことを記憶しています。

また、レコード(当時です)で、何度もお話を繰り返し聞いて、まだ小さい弟をミチルに見立てて・・・・(ごっこ遊び)

幼児なりに、幼稚園(青い鳥)と自分と物語の関係性を見出し、自分なりに何かを獲得しようとしていたのかもしれません。

「幸せは近くにある」というような結論が有名なようですが、先入観を取り払って読むと、違う感想も出てくると思います。


重要なのは、児童期以降に点と点を結び付けて自ら価値を感じる内面の発達であり、

これは、後に肯定感やセルフメディケーションに大きく関連します。




また、物語を通して良い解釈を直感的に得ること、感じることが精神発達に資する経験になります。

近代の子どもの読書問題は、子どもの育ちが可視化できる物質や体験との結びつきに偏っていることが原因の一つと考えてみると、

精神の能力の一つは、人生において付加価値を生み出していく力(=自己教育力)ではないかと考えています。