子どもの「知性」「知能」「知識」

子どもの「知性」「知能」「知識」について
考える

モンテッソーリ教育における知性について




医学博士号を女性で初めて取得したマリア・モンテッソーリ(1865)は、
人間における「品位」について、それは、内面のことであるとしています。



そして、品位とは何か?という問いへの答えとして、
「品位とは、賞罰に対して無関心な心のあり方」と規定し、
それは「心の品位」という呼び方をされることもあります。

以前、記事に書いた「褒める」という外的報酬が、
子どもの心の育ちにとって、いかに有害になり得るのかということを
明示している考え方だと思います。


また、手を使うことによって知性が育まれるという女史の教育理論は、
医学的かつ科学的根拠に基づいているということができると思います。
手は脳の神経回路とダイレクトにつながる器官であり、
手を使うことは、「体験」であり、知性を獲得することであるというものです。


手を使う知的活動を、「おしごと」と呼び、敏感期におしごとを
子ども自身が選択しくり返し行うことで、「正常化」が達成されます。
正常化された子どもは、その後の教育によって
好ましい自立や自律、有能感を備え、
善良な人間性を獲得していくことができるといいます。


この「正常化」と「知性の獲得」は、モンテッソーリ教育を理解する上で、
とても重要なことであるように思います。


女史は医学博士であるという事実の他に、
人間の「原罪」についての認識を持っていたと考えられています。

知性とは「善」



ここは、私の考察です。

女史は、「血と肉と精霊」という視点を著書で示しておられ、
内面的にも(善い)人間になるためには、
精霊の「質」が必要であるという視点も持ち合わせていたと
仮定することができると思います。

善い人間性を獲得し、真の自由を獲得してゆくことは、
人間における最高の可能性であると考えます。

モンテッソーリ教育論では、
「なるべく人間像」という言い方をしています。

それは即ち、「質」を意味していると考えました。





モンテッソーリの全人格教育




自立している
有能である
責任感と他者への思いやりがある
生涯学び続ける姿勢をもつ

・・・大人になるというようなことです。


これを、自身の考察にて分析してみると、以下のようになります。




自立している
個の確立、
精神的な自立を遂げている(自由への条件)

有能である
有能感を備えている、
知識や知能を持ち合わせている(スペックが高い)

責任感と他者への思いやりがある
罪悪感を備え、
パーソナリティ障害を引き起こしていない

生涯学び続ける姿勢を持つ
謙虚さ、知性を備えている、
困難を乗り越える力、自由の獲得



内面が善い人間になるためには、練習や訓練(レッスン)が必要であり、
その課題を軽視すれば、
内面が善い人間になることはできないということを前提としている
教育論であると考えています。




秩序の獲得






動物と人間の一番の違いは、「言語」を使えるという
「知能」や「知識」に偏って着目してきた歴史があります。



それは確かに事実なのですが、
それだけではなく、体内で起こる化学的反応を含め、
人格障害を起こさないための発達への関わり方や、
罪悪感の育みの重要性に気づく必要もあるでしょう。





幼児期までに育むべきは「知性」の土台であり、
知性を獲得することは、パーソナリティ障害に陥らないことを意味していると考えられます。



また、0歳からの教育に繰り返し関わってきた体験に基づけば、
知性の土台は0−2歳など、言語獲得前に育まれるものであると確信しています。


2歳までに適切な秩序感を備えることは、その後に大きな影響をもたらします。


幼児期からの
ピアノ教育における知性について

手は知性の道具



ピアノ教育が、人間を知性たらしめる最高の教育の一つであることは、
世界的に見ても事実であると言えると思います。



「手は知性の道具」とは、モンテッソーリ教育における
基本的理解項目なのですが、
ピアノ演奏は、全指を複雑に使い、楽譜を読み取り音楽として再現するなど、
運動や想像力だけでなく、
多くの秩序に基づいた知的な体験であるということができると思います。


「感覚の統合」ともいえる、高度な活動ということになります。


また、人前での演奏など、自発性も求められます。
知識、知能、知性の全てが網羅されている活動、体験なのです。


幼少期から適切な音楽教育を受けることによって得られる恩恵は、
計り知れないと考えます。

幼児期におけるピアノ教育の導入については、
知性を伴った内容であることが大切であると考えています。




知性の獲得




全人格形成の順序は、感性→知性→知能→知識→・・・であり、
知識は一番最後が望ましいと考えられます。


小学校入学前年頃から知識の獲得が始まる場合もあれば、
小学校に入ってから始まる場合もあると思います。
時期は個人によって違いますが、順序は共通であると考えています。


これは、芸術教育においても同様です。


昨今、この順序が違っていることの多さに危機感を覚えます。




感覚の統合の前に、
感覚や知性を獲得している必要があることが、理解できると思います。
これは、現代の子育て環境において、
自然にはなかなか難しいのではないかと考えます。



様々なレッスンによって知性を、練習によって知性と知能を、
最後に知識を獲得することが望ましいと考えています。



特に幼少期における音楽教育や青年前期までの音楽教育の継続は、
人間性を鍛え磨く土台としての感性、知性の獲得そのものであることを
理解する必要があるでしょう。





AIと知識・知能

AI



3歳ごろまでは、人間の子どもはチンパンジーより劣るか
同等の知能しか持てないといわれています。


それ以降、言語を獲得し、道具を使いこなし、
知識や知能を獲得していけるのは、
知性獲得の土台を築いたからにほかならないのです。


しかしながら、言語の獲得は、今や人工知能の得意分野です。


つまり、長い間、人間のみの知性の一つであると言われ続けてきた
「言語の獲得」は、
人工知能がもっとも得意なことに置き変わってしまったのではないでしょうか。


今日、人間と動物の境界は言語だけではなくなりました。


更に知識量の観点からは、今後人間が
AIに匹敵することはかなり困難であると考えるべきではないでしょうか。





非言語分野





従って

「知性とは、言語化できないもの」=非言語分野
という価値観を、人間は受け入れる必要がありましょう。

言語化された時点で、それは知性ではないということになります。


音楽教育においては、
演奏する人だけでなく、聴く人にも同等の知性が求められます。


聴くことで、自らと演者と作曲家の世界観を共有することは、
知的活動であると考えています。

子どもの自発性と知性(音楽編)

自発性



演奏には、高い自発性が求められます。


また、演奏によって心の動きや秩序を疑似体験することで、
感性が磨かれ、やがてそれが知性となってゆきます。


故に、幼児期に、知的活動(芸術活動)によって
無意識に精神の「浄化」が少しできるようになることが
望ましいと考えます。



更に、子どもにおいては特に、「自発性」なき活動は、
経験が知性として備わってゆかないことが近年明らかになっています。


これは、幼児期までの人格形成(教育)が重要であることが
明示されていると捉えることができると思います。




少しそれますが、
心の動きの体験は、演奏することでもっとも有効ですが、
絶対音感が備わっている場合、脳内で楽譜の音を起こし、
潜在的な感覚のもと疑似体験することができます。

個人的には、この時に少し知性を獲得することができると考えています。


それは恐らく、自然の中で癒しや想いに浸かっているときに、
宇宙の法則(私にとっては超難解な数式・・)を潜在的な感覚のもと
疑似体験していることと似ているのかもしれないとも考えます。



問い続ける




音楽の学習は、「答えのない問いへの追求」の側面があります。


気づくと同じ曲に対して何年も思いを馳せ、まだはっきりとはわからない、
という謎に伴って成り立つ部分が大きいと思います。

問い続けることによって、知性が磨かれていくのではないでしょうか。


そして、この「問い続ける」という力こそ、
「自発性」が土台ではないかと考えます。


更に、どうしたら演奏が善くなるのかと追求するその過程や練習において、
ドーパミンやアドレナリンが作用するのであれば、
知性活動そのものになります。



また、作曲家は(恐らく)人間であり、
もうとうの昔に亡くなっていることも多いですが、
作曲家の意図に歩み寄ることは、
その作曲家の世界観を体験することをも意味します。



さらに言えば、作品に自発的に関わっていくことは、
知性の獲得そのものである
と言っても過言ではないでしょう。