音楽(musa)と癒し

Therapy & Expression

1月

Debussy
Images より
Reflets dans I'Eau

他20曲程度

 新年を迎え十分に休むことができ、心身共に疲れを癒すことができた気がした1月でした。昨年も今年もピアノが弾けることに感謝です。
 音楽は時間芸術であり記憶や感覚と繋がっているとされていますが、この曲は私の記憶の引き出しの奥の方に大事にしまわれていた曲だと思います。そして、楽譜を整理していたらハラリと出てきたのですが、弾いてみようと思ったことに自分が一番驚きながら何度か弾き始めたところ、先月と同様に"fit"した感覚になりました。子どもの頃からドビュッシーのピアノ曲が好きで癒しに繋がります。
 自分とピアノの関係を文章にするだけではなく、演奏してみた感覚も媒体として捉えていくことで、「弾ける」という能力の枠組みではなく、「弾きたい」という自分の世界観を表現することができるのではないかと考えています。運動的には練習が必要だけれど「弾きたい」というエネルギーは内発的動機づけからであろう、などと自分を分析しながら自己理解へも繋げています。更には、記憶やヒストリーから少し解放され、曲に内在する雰囲気をも媒体にすることで、自分の内面と繋がることで癒され、感覚的に楽しめるのではないかと考えています。

11月は身辺に目まぐるしい変化があり、ピアノに向かう時間を多くとることが出来ませんでした。しかし、隙間時間15分を(可能な限り!)毎日利用するという、小学生や中学生の頃(!?)のピアノへの向かい方に立ち戻り実践するという機会に恵まれたような気がしています。
 BWV874 dmajor という選曲の理由は、youtubeのおすすめ〇〇に表示され、ちょっと弾いてみたところ心情に"fit"した感じから繰り返し弾くに至っています。自身にとってfitする感じがある時、それは身体性からであることも多いのですが、そんな視点からもこの選曲は現在の自分にとって大きな意味を含んでいるのではないかと意味付けしています。また、AIが自身の生活に取り込まれていることを実感した経験でもありました。
 そして、2025年は自身にとって最後まで激動の年でした。心身ともに疲弊したり新しい環境に何度も立たされたりが繰り返され、自分の忍耐力に嫌気が差した部分もありましたが、このような年の最後に、「天の声」とも感じられるこの2曲になんとなく救われた思いがよぎり、年の終わりに"必然性" について考えてみたりしました。
 

11月・12月

Bach
平均律Ⅱ BWV874 dmajor

他20曲程度

10月

SCHUMANN

森の情景 op.82

他15曲程度

10月はショパン国際ピアノコンクールの配信に聴き入り、寝不足が続いたものの、感動することも多かったせいか体調も崩さずに過ごしました。
優勝した方はショパンの精霊が宿ったのかと感じさせてくれるような演奏だったことと、単純にコンチェルト2番推しの私の好みもあり、腑に落ちる結果でしたし、人間のエネルギーの体現であるピアノの可能性や演奏家における再現性についても改めて考える機会になりました。更に、審査基準に変更があったことは、時代と共に精神性への感度へややシフトしたというメッセージだと感じました。ショパンの音楽性の底深さに触れつつ、ドビュッシーやバラード→シューマンの後期作品へと辿り着きました。様々な経緯から晩年精神疾患に陥ったと言われているシューマンの後期作品は、追求することが難しいと言えますが、今回は特に第6曲 Herberge を好んで弾いています。最後まで美しく楽しげなメロディーが続く易しい曲で、シューベルトのように音色で楽しめる曲です。変記号のみのこの曲集を全て弾くには、技巧ではなく理解が必要で、管弦楽器を思わせる雰囲気も楽しめました。教育的分野では、ドイツ、特に子どもにとっての「森」は自然の脅威やロマンを体感し共存していく感覚に不可欠な存在であるといいます。自身は、森に囲まれた地域で子ども時代を過ごし遊び場の一つだったことからも「森の情景」=自己の記憶+ロマンになっている感は否めませんが、幻想を超越した時にシューマンの繊細なロマンと出会えるのかもしれません。

8ー9月

Debussy 

Preludes 1より

Le collines d’Anacapri
La file aux cheveux de lin
他数曲


他20曲程度

  毎年夏はピアノコンクールを聴きに行くようにしてきたのですが、今年は少し思うところと心境の変化があったこと、お休みが取れなかったこともあり、配信視聴の他には就学前の子どもの入賞者コンサートに足を運びました。小さな子どもの数十人の演奏を継続して聴くのは久しぶりでしたが、一人一人の音色や微妙な捉え方の違いを聴きとることができた自分にほっとして安堵したのと同時に、ピアノ教育の原点が人間教育の極みの一つであるという持論を改めて肯定できたような気がしました。
風の時代と呼ばれる現在において、物質ではなく「音」という非物質とのつながりを感じられること、音にその子なりのイメージをのせられる様々な感覚を幼児期に体験し人前で表現することができるということは、これから自律的に風の時代を生きる「縁」となることが期待できると考えています。
 そして、今年も毎日本当に暑い日が続く中、毎朝明るい日差しを眺める機会が多かったせいなのか?、アナカプリの丘を突然思い出しなんとなく弾いています。今月はなんとなくつながりがなぜか多く、真夏の日差し→アナカプリ→???→イギリス文学→亜麻色の髪の乙女→真夏の日差しとなったところで、新たなネットワークができたような気がしています。
”偶然、ある部屋や朝の空の色合いを目にしたり、・・香りからかすかな記憶を思い出したり、もう演奏することがなくなった曲の一説を耳にしたりする・・そういうことにこそ我々の生活は動かされるのだ。・・”
”あなたが象牙と金でつくられているせいで世界は変わってしまった。あなたの唇の曲線が歴史を書き換えた。” 
魂と再現性と音楽について少し踏み込んだ気がした夏になりました。*引用文献『ドリアン・グレーの肖像』オスカー・ワイルド
 

5-7月

Chopin

Nocturne  op.27-2

Akira MIYOSHI

A DIARY OF THE SEAより数曲

Mozart

piano sonata kv330より
Andante cantabile


他30曲程度


3月ー4月

Beethoven

piano sonata op.2-2

piano sonata op.110

他20曲程度

 今年の3月4月は生活や仕事面・プライベートで目まぐるしい変化があり、毎日が変化の連続という感じで2ヶ月を過ごしました。けれども、これまでのささやかな継続が功を奏し、ようやくベートヴェンソナタに取り掛かる気になれたことがとても嬉しく、感謝の気持ちで満たされています。指が動かないとベートヴェンソナタを演奏することはできないため、ただ指の訓練になってしまうことを恐れる気持ちや、昔のように弾けない自己の衰えの認識で終わってしまうことを避けていたこともあり、何よりもあまり弾く気にならなかった、それがなんとなく残念だったという自己都合が満載でしたが、心境の変化はop.2-2の4楽章で起こり、しばらくしてop.110に没入?していました。選曲で自己の状態を知るということを長年継続してきましたが、先日文献で、画家のアンリ・マティス(仏)が晩年、何を描くかということよりも何色で描くか(描きたいか)ということに興味の中心を置いて作品をどんどん作っていった、というエピソードを読み返し、芸術家としてというよりも人間として自分の内面に向き合う姿にシンパシーが生じています。作品を通じて自己の内面を浄化するような感覚は、癒しそのものであり、人間の晩年における「統合」に繋がると想像します。
 op.2-2はハイドンに献呈されており、華やかな技巧性と”ハイドンエコー”が感じられます。op.110は、これもまた高校生(16歳)の頃レッスンして頂いた曲で、当時一応弾けてはいたものの、作品に込められた「苦悩」「浮き沈み」などを理論ではなく深く理解することは(当然)無理だったと今でも記憶しています。それでも理解しようとして文学を読み漁ったりもしたことがとても懐かしく、現在は、ベートーヴェンが自分自身へ捧げたあるいは投影として生み出され昇華されたようにも思える名曲であることを改めて思い、この曲を課題に出された当時の先生の私へのメッセージを改めて受け取ったような気分になりました。音楽は言語であるということを常に感じさせてくれる大切な曲です。

1月~2月

Mozart piano sonata KV545
Haydn piano sonata Hob.XVI:48

Gillock
こどものためのアルバムより
抒情小曲集より

他20曲程度

 以前からお願いしていたものの予定が合わず、ようやく年始に娘からアドバイスを受ける機会を得て、自分の演奏を改善することができました。フィードバックの仕方が良いなと思い、親として嬉しい気持ちと関心する心境に至っています。日常の小さな出来事が、思いがけない「光」になることは珍しいことではないと考えており、この年始のストーリーは自身に「good enough」の境地をもたらしました。  子どもについての文献に触れると同時進行で、子どもの楽曲に触れる機会も継続しており、その流れでcmajorのピアノソナタを弾いています。 kv545は、子どもの頃大好きで得意だったが、近年はそれほどでも?(弾きにくい!)という典型的な曲の一つで、初心に戻る気持ちでさらった他、現代では脳に良い音楽=癒しの音楽として知られていることを体感&実感しました。どんな曲が癒しになるのかということは、科学的見解で一般化されているものの、実際の効果は個人によって異なり、また個人においても時間軸によって異なるという現実があると思います。 以前好まない曲でも現在は心惹かれたり、その逆も起こり得ます。  ギロックの曲は以前から好きなものが多いのですが、理由としては音響の要素が不可欠であると考えているためで、自身の中では、理論は異なりますがシューベルトにおける美的感覚との同類性を感じています。ピアノにおいては音色の質のことでもあり、それは潜在的で霊魂的であり、「tacit-knowledge 」「invisible」そのものであるから、他者からではなく、自分から自分へのフィードバックそのものであるという仮説的結論を導き出しました。そしてこれは、自律的人間発達へとつながることも語ることができる結論であると考えています。
 何でも言語化・一般化しようとする強い潮流がありますが、音は統合・調和のアイテムであることは普遍的なのだとより深いところで改めて実感できたような気がします。*参考文献:神曲 天国扁 ダンテ 河出文庫他、

 年末は毎年忙しくなんとなく落ち着かないながらも、先月からの流れでシューマンを弾いておくべきという心境に自然に至り取り組むことができました。今年の最後にほんの少し取り組む成り行きとなったことに「偶然の顔した必然?!」という小さなミラクル(奇跡)を感じる部分があります。
 必然としては、現在、「子ども」という領域に関わりながら研究や考察を行っているという視点からのシューマンの音楽観であり、音楽とともに詩(文学)を愛したシューマンは終生子どもに寄り添ったということが文献で残され、子どもとの親和性が高いことです。
また、文献中の「音楽は涙から生まれた」(エヴリヌ・ピエイエ)、「音楽は言葉よりも先に(同時に)生まれ分化した」(熊谷)などは、言語獲得前の乳児をも思い起こさせ、幼児期は、ことばよりも音楽による内面の表現が適している時期であると改めて思うに至りました。
 偶然としては、今年の締めくくりにシューマンを再び弾くことになったことであり、心に小さな灯がともされたというフローです。シューマンの曲は小品であっても技巧が必要なことが多いですが、最も重要なのは曲にちりばめられた感情や精神性の音が、音色や演者の内面にあるものでしか表現されにくい点であると常々考えてきました。いずれもシューマンが若いころの作品であり、特にop.16は演奏や練習においても高いエネルギーが要され、op.15は、子どもの表情(感情)、精神性が存在しており、演奏においては、子ども理解またははっきりとした回想が必要であると感じました。シューマンが病に苦しんでいたことや藝術人の対象として、様々な視点での文献が存在しますが、社会的・政治的作品は少なく、文学と音楽の類い稀なる融合的作品(個人的)が多いことは確かです。
 パルティータは、練習曲として選択していますが、好きな曲です。今年もピアノを弾くことができたことに感謝しつつ、来年はもう少し練習できたらいいな。と思いました。*参考文献:音楽の子ども 言叢社etc
 

11月


Chopin
Ballade  Op.38


他20曲程度

 今月は、文学とコンクール聴講と課題!に追われて過ごしました。読書量が増えた関係でピアノに割く気持ちと時間があまりとれませんでしたが、先月のシューベルトからの流れでこの曲に取り組んでいます。今年は配信のみになりましたが、長期間のコンクール聴講に伴い、色々な曲を弾くことを控えたということもあります。コンクールで演奏されていないと思われる選曲となりました。
 個人的には、毎回第一次予選が最も聴き甲斐があると思っており、コンクール聴講は自分の耳や考え方の「精度」を確かめる機会にもなっていますが、今年もファイナルまで沢山の感動を頂き、「不可視な美」を確かに受け取ることができたと思います。
 バラードの2番はこれまであまりピンとくるものがなかった作品でしたが、F-majorから始まることに改めて気づき、この部分の難しさを体感しつつ、40歳を迎えることなく昇天した「ピアノの詩人ショパン」の世界観と、ショパン自身の内面的な物語性を見出せるこの作品に、50歳を過ぎて(!)自分なりに向き合うことのできる時間があることにも感謝の念が湧きました。
 子どもや教育に関する文献に触れたり考えたりする機会が比較的多いため、子どもについてだけでなく、自身の子どもの頃の記憶と向き合う機会も多くなるというやや特殊な状況で過ごしていますが、時折ささいなことにも関わらず、驚愕する思いに至ることがあります。
 私は以前から、8-9歳が子どもの覚醒時期と考えており、それは文献以前に自身の感覚からきているものでした。「内面でつながる」ということを体感しました。それが、文学や音楽、体育だったわけです。その恩恵は、現在まで細々と継続しているように思います。
 例えば、人間がどのように教育されるべきなのか、という問題は、AIの台頭や人間の潜在力の一般化の推進により、長い間見て見ぬふりされている経緯がありますが、8-9歳ごろからの姿(内面)は言語教育だけではなく、+リズムと音楽教育の賜物であるということを、個人的経験知識(experiential knowledge)として語ることができます。あるいは、自身の青年期、高2(16-7歳)の代数・幾何(必修)の習得で、音楽教育による恩恵を感じたことがあります。これも知性における「つながり」の経験の一つです。
 人間へと導く音楽教育が「人格調和」のためのものであってほしいと考えています。*参考文献:奇跡の人ヘレン・ケラー自伝 新潮社、 美と教育という謎 東京大学出版会etc
 

 暑い夏から突然秋になったような気候で、読書の秋・食欲の秋とはよく言ったものだとしみじみするような思いの10月でした。良い音のピアノで弾く機会が増えてきたこともあり、シューベルトを弾いてみました。
 シューベルトのソナタは感情の流れが一章節も止むことなく続き、反復も多く、これまでは、一般的な感覚で長時間練習することについては困難な面があると感じていました。以前中期ソナタに取り組んだのは20年以上前で、今回はその時の心境とはまた違う感覚で適度な客観性と共感をもちつつ繰り返し弾くにつれて、やはり人間の「怒り」が最も美しい感情なのではないかと思うに至りました。 ベートーヴェンソナタの高い「生」エネルギーとはまた違い、「死」という観念が現実として彼自身に存在し、そこに向き合うようにも感じられる晩年のシューベルトのピアノソナタは、やはり弾くことで癒される楽曲であり、詩を愛し歌曲を多く残したこの若い作曲家を少し理解したような気がします。
 自身の子どもの頃を思い返してみたところ、「野ばら」がとても好きだったことを思い出しました。(幼稚園のクラスはばらぐみでした!)そして、それは現在まで不変であることを再確認することができ、「幼児期に内面に生じるもの」の威力(?)についても考えてみました。*参考文献:「でんでんむしのかなしみ」新美南吉

9月

Scarlatti
Mozart
Liszt  
Debussy or Ravel

Chopin
Variations brillantes B flat major op.12

他10曲程度

 楽譜や音楽には触れていて、想いも馳せているが練習が少ない、という感じで過ごしました。中年を迎えた際に、「新しいことに取り組んでゆかないと脳の衰えは止められない」という説を真に受け、以降、弾ける曲は極力弾かずに、新曲を弾こうと謎の決意をしてから現在まで継続してきました。少し疲れた時には、弾ける曲や知っている曲を弾いて脳活をさぼり心活をします(.....)。中旬を過ぎたあたりから少し焦りだし、ショパンの変奏曲でなんとかつなぎました。このような場合、意識的に4期から弾きたい曲を選んでなるべく弾くようにしていますが、そんな折にふと思い出したことがありました。
とても若いころ(高校生)に、コンクールに急遽出ることになり、4期から選曲してもらったのですが、バロックの選曲に先生が頭を悩ませていて、決まるまで全ての課題曲を暫く弾いていました。当時、私は好きな曲はあったものの、自分でどれが向いているのかさっぱり判断ができず、練習と先生のレッスン頼りでした。申し込み直前に、「これがいいわ!」と決めていただいた時に安堵したことを覚えています。当時の選曲は、ヘンデル、モーツアルト、リスト、ラフマニノフでした。(この選曲は様々な意味でベストであった、と今でも感服しております。)
 現在の私は、自分で向き不向きを半分くらいは判断でき、選んでみたらスカルラッティ、モーツアルト、リスト、ドビュッシー(ラヴェル)となりました。驚いたのは、モーツアルトとリストが変わっていないことです。20年前の選曲は、バッハ(スカルラッティ)、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシーという感じだと思われます。要するに、数十年でまた戻ったのだと理解しました。
モーツアルトは当時ほど弾けませんが、リストは、より自律的に演奏できるようになった気がします。 音楽を継続する楽しみの一つに、「選曲」があり、それは自分を知り表現することだけでなく、演者を知ることもできるのではないかと考えています。

 時間に恵まれた2度目の夏を過ごし、山積みになっていた様々なことを少し整理することができました。毎夏、主に子どものピアノコンクールを直接聴きにいくようにしており、時代の流れ等も考察します。ここ数年は多種の義務からゆっくりとゆっくりと解放され、厳格な義務が存在していた席が空き、感謝の念とともにそこに小さな自由(徳)を置いていく感覚を自覚したように思います。
 フランス組曲は、対位法から解放されたアリア的な要素が強く、弾くことで癒される部分のある作品の一つであると思っています。(…専門的にはバッハのエスプリとしての対位法が確立されている唯一無二の光のある作品であると思われます。)昔昔にさらったはずが、指が殆ど覚えていないことに愕然としたこともあり弾くに至りました。自分の内面にフィットする感じもあったかもしれません。
 リチャードクレイダーマンでヒットしていた多くのピアノ曲は、今は亡き自身の母が大好きだった思い出の曲です。墓参り後まもなくして、朝目覚めたら突然降りてきた感覚になり、想いを乗せて弾くに至り、実に小学生以来の弾きとなりました。こんな素敵な曲の数々を心から愛していた母の純粋性に触れた気がして、母への感謝の思いや思い出とともに複雑な領域のいくつかを昇華できたような気持がしました。音は天に届いたかな…? 

7月

Mendelssohn
Lider Ohne Wrote より数曲

Grieg
抒情小曲集より数曲

他20曲程度

 今月は読書の他学習や書類とともに過ごすことが多く、思考も多く、なんとなく頭が整理されない気がして何を弾こうかなと久しぶりにもやもやとした時間を過ごしました。そのようなときはあまり無理をせずに小品を沢山弾くことがこれまでも多かったのですが、そんな中新しい気づきを得ることができたように思います。初期ドイツロマン主義の詩人ノヴァーリスのポエジーによれば、詩とは経験に基づくものであり、言葉とは符号と音声からなる小世界であり、故に詩とは天界に歩み寄った人間界の行為であると捉えることができますが、音楽における子ども向けの作品や小品は詩的要素が満載であるため、子どもの内面の育みや大人の精神の癒しになり得るということを、改めて確信できたという境地に至りました。若いころ必要に迫られてさらりと読んだり弾いたりしたことはかけがえのない種まきであるということができると思いますが、その後何十年も経ってから深堀りし、それまでとは違った心境に至ることは(生涯)発達の一つであるということができると考えています。メンデルスゾーンは子どもの頃学習で弾き、グリーグは大人になってからその魅力に取りつかれたことのある作品が多いです。子どもの教育という柱の多くなった大人観に、北欧のショパンといわれるグリーグの小品は「刺さる」感があります。もやもやとした上旬と中旬の頭を、グリーグやメンデルスゾーンの作品を通して自己教育することができたような気分にもなり、今年の7月はとても良い思い出になりました。*参考文献「ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン」ノヴァーリス 岩波文庫
 

 毎年6月ごろは読書量が増えるのですが、今年も休日は読み物に耽りがちでした。クープランの優しい(易しい)曲は、沈んだ気分に作用し、深層に作用しつつ心身のバランスを整える効果があるように感じ、なんとなく繰り返し演奏に至っています。
 エンデの~・・物理的な時計の時間とは別に、人は心の内面に時間を持ち、それこそが本来の生きた時間なのだ・・・~(『モモ』)というシンプルなメッセージに深く共感し、「神秘的な~」を演奏してみると、これまでとは違った解釈が内面に生じたように思います。ヘンデルの曲は、大昔コンクールで演奏した思い出の曲で、やはり10代の頃のほうがスラスラ弾いていたと実感する半面、ヘンデルの曲の明るさや華やかさが齎す癒しの響きに、改めて感服する思いで何度も弾いていました。
 ピアノ演奏は、単なる指の運動神経や指さばきの良さに着目される歴史が長く続いていますが、やや本格的レッスンに通うと、それ以外のことを多く要求される(問われる)ことになります。自身にとって、例えばヘンデルのこの小さな組曲は、コンクール舞台という目的を通して、とても細部まで先生に聴いていただき、自分もまた細部まで聴こうと耳を澄ませ、当日までに美しく完成した(であろう?)ものであり、美しいものを披露するこの美しい思い出の一片をめぐり、何十年でも過去にタイムスリップできる「時間の旅」のアイテムの一曲であることを現在になって改めて確認できた思いでした。*参考文献:「モモ」ミヒャエル・エンデ 岩波少年文庫

 自身の音楽環境の始まりは祖母や母によれば0歳であり、家庭内で潜在的に取り込まれ、身体性よりも理論書で習得し、小学校に入ると、休み時間に音楽室でコード付き歌集や教科書の曲を弾いて遊んでいる子どもでした。実際にピアノ教室に習いに行く許可がようやく下りたのは8歳ごろであり、毎日の練習を必ずすることを、母に「固い誓い」を立て、一日でも破られた場合には即刻廃止、ピアノも不要という誓約のもとに私の生活にピアノが導入されたのでした。父は学業優先で、あまり関心がなかったことも、環境としてはよかったのだと思います。
 以上は、前置きなのですが、ピアノ教室に通いだして暫くしてから、他の生徒さんがレッスンを受けて弾いていた曲に一度で魅了され、楽譜を立ち読みしたり、数曲手に入れては家で弾いたりしていました。それが、ハイドンのピアノソナタだったわけです(今思えば、先生のご配慮?!)。その後は、近現代音楽に魅了されていったのですが、大人になって再度ハイドンの虜になるも、いくつかの楽曲分析などの文献や世風に潜在的な違和感を覚えたこともあり、徐々に保留になったものの、親として小学生の娘達等に、ハイドンのソナタを課題とし、臨床を行ったり、自身がハイドンを好んで聴いてきた経緯もあり、遠からず近からずの関係は半世紀近いのではないかと気づかされます。
 子どもの頃になんとなく魅了され、そのことが現在まで深く繋がっていること、ハイドンの音楽には、環境背景と人格、身体性が多く含まれていることをより理解し、その上で、潜在的に魅了されること(自身はこれを「なんとなく」と言っています)、及び肯定感が増したことにより、保留が少し解消された気分になりました。
 また、子どもの保育臨床の経験から、ハイドンの音楽内の「相互作用」について、「文脈」ではなく「体験」(運動とは少し異なる)に焦点が当たっていることを広義でイメージすることが可能になり、「潜在意識」「無意識」の質の重要性にもようやく光が当たるのではないかと仮説を立てるに至りました。視点はやや違うとは思いますが、晩年の巨匠たちが、ハイドンに立ち返る現象も、より共感できる思いがしました。*参考文献:「ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む」伊東信宏 春秋社

  先月の「水の戯れ」からの流れで、やはりエステ荘の噴水を弾きたいと思い取り組みました。
リストの作品に対して、自身は、「霊性」に最も近づいているものと捉えており、この2曲は、「いつか練習しないで弾く」(!)と、密かな情熱を抱いていた曲のうちのものです。「練習しないで」というのは、晩年の作品に対して、若者として弾くことに畏れを持っていたので、そのくらいの年齢(境地)になったら技巧的にではなく、心を込めて弾きたいという意味でした。
 2曲とも、リストの後期の作品であり、大きな絶望を経験したリストが、より宗教性に覚醒し導かれるようにつくられたような雰囲気で満たされた曲であると感じます。特に、エステ荘~においては、「宗教性」「魂の癒し」を練習においても体感することができたように思い、噴水の水と光の美しさを見ながらリスト自身が癒され考え感じたことは何であったか?など、リストの晩年期を大人として理解するきっかけにもなったように思いました。
 伝説~のほうは、連休中に「物語性(宗教性)のある曲」に浸りながら、精神が自然に浄化され、創造的な時間を持てたように思いました。偉大な守護聖人であるアッシジの聖フランチェスコの説教(レチタティーヴォ)と鳥(つばめ?)の声や動きのかけあいは、「全ての被造物」という大きな視点をも意識せざるを得ない神々しさがあります。
 子どものピアノや人間の精神の発達に関心があります。リストのつくった「鳥のさえずり」はまるで本物のようで、「聴覚の記憶」についても、しばし考えてみました。

4月

巡礼の年 第3年(s163/R10)より
エステ荘の噴水 
Liszt Franz

2つの伝説(S175)より
小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ
Liszt Franz

他10曲程度

3月

Jeux d’eau
Ravel

クラヴサン曲集より
Couperin

Air
Muffat

他20曲程度

 立春を迎え、春休みに入り、追い込み勉強(?)で硬くなったような気がする頭をリセットすべく、中旬ごろまでのんびりと過ごしました。
 ある程度の年齢に達してから、言語による認知学習と、音や演奏による非認知学習の相性はあまり良いと感じておらず、膨大な言語レベルでの知識を一度払い落とす時間が必要だと感じており、2か月弱、あまりピアノに触れずに過ごした後は、練習曲で様々な感覚を蘇らせていきます。
100曲程度の練習曲やソナタを次々に演奏するスタイルは、「芸術療法」を強く意識したものです。自身の専門関心領域の一つでもあり、モーツアルト音楽療法も少し取り入れながら進めます。
 また、複数の著名な指揮者や演奏家が、「知識は全部忘れて全霊によって・・・」とご教示されていたことに共鳴し、長らく座右の銘の一つにしています・・。
 学習曲線「3歩進んで2歩下がる」!と謙虚に捉えることが、成人学習の基本なのでは?と改めて思いながら、究極的な抒情曲ともいえるラフマニノフの小品で、様々な感覚を確認してみました。

2月

ツェルニー Op.299

Rachmaninoff op.3-3
Melodie

他60曲程度

1月

Morzart
piano sonata kv332 f-major
第三楽章

他7曲程度

 テストやレポートなど勉強に追われた気分で正月を過ごし、今月はピアノに殆ど触れずに過ごしました・・。勉強に追われていると、ピアノは癒しに変貌します。
 けれども、大きな発見があり、とても不思議な体験をしています。kv332の三楽章は、子供の頃から一度も好きだと感じたことがない曲の一つでした(嫌いではなく)。1、2楽章はたまに弾くことがあったものの、三楽章は自ら弾くことはなかったように記憶しているのですが、何故か心地よく、いつの間にか何度も弾いていました。
 ピアノを続けていると、このようなことがたまにあり、そんな時、自分の心境の変化や変容を体感することができます。生涯発達の観点からは、「アンドラゴジーの果実」と言えるのではないか?と考えました。

 今年の最後に何を弾くことになるのか、予測不可能でしたが、
ドビュッシーに戻ってきたような気持ちで、やや弾きにくい技巧にトライしていました。
 普段から、ピアノ演奏における認知的視点からの「物語性」をなんとなく研究してきているのですが、とある文献にて、物語とは、認知と感情を統合することにおいて最もふさわしいツールであるというようなことを読んだことがあります。音楽作品には、多かれ少なかれ、物語性が存在します。
 ドビュッシーの「雨の庭」は、自己の演奏時において、これらの証明となるような境地を体験することが可能な作品であると感じました。
パルティータは、良い年であった兎年(2023)に感謝するような気持に合った曲想で、普段、聴くほうが好きなバッハの曲に取り組んでみました。
 今年もピアノが弾けたことに、感謝!です・・。

11月
Dumka  c-moll  op.59
Tchaikovsky 

四季より 秋の歌 d-moll op.37
12の性格的描写
Tchaikovsky

他10曲程度

 最近、読書量が増えているせいか、思考する機会が多くなっているのですが、そんな時、mollの曲を好んで弾く傾向があるようです。また、文学と音楽は、芋づる式のようなところがあります。・・
 それにしても、チャイコフスキーの世界観を共有することになるとは、予想外で少し驚きました。
 ドゥムカを練習しているときに、浮かんだのが四季の「10月」で、これまであまり弾くことのなかった2曲にたどり着き、この2曲が以前よりも好きになったような気がします。
2曲ともに「哀歌」ですが、ppppは体感として瞑想(?)に近い領域で、この世界観に歩み寄ることによって
複雑な思考を洗い出して浄化させてくれるような感じがありました。

 

 この記録をつけ始めてから、間もなく1年が経過します。
一年前、一年後に自分が何を弾いているのか予想せずに、目標を立てずに
心のままに練習(?)を継続したのですが、ショパンのノクターンに
たどり着いたのは意外で、自分で少し驚きました。
 いずれも短いですが、後期の作品であり、特にショパンのほうは、
演奏する場合、高次元の客観性と内面性が求められるように思います。
H-durに内在された複雑な色調と、ショパンの昇華が所々に感じられ、
藝術性に、しばし触れた気がしました。
他の勉強もあり、あまり練習が進まなかったのですが、
シューマンのシンプルな美曲に癒されました。

10月

Schumann
森の情景0p.82-5

Chopin
ノクターン0p.62-1
他10曲程度

September  2023

9月

Liszt Franz
巡礼の年 第1年 スイスより
泉のほとりで

Wyman
Silvery Waves(銀波)

他20曲程度


 先月に引き続き、今月は計画的に身体のリフレッシュを試みました。

 「泉のほとりで」は、鑑賞よりも、弾くことで心が癒されるような、
魔法的な力を持っている曲だと感じます。

銀波は、小学生の時に発表会で弾いた思い出深い曲で、かなり久しぶりに弾きました。
別名「水の戯れ」とも呼ばれるそうで、当時この曲を私に下さった先生に
改めて感謝するような気持になりました。

August  2023



今年の夏休み期間は、私にとって数十年ぶりの
心身の安息&休憩時期となりました。

しばし読書に耽り、充足感もあり、

心身をゆっくり休めると、希望が湧いてくる感覚がありました。

バッハのGdurは、自分の中の活力を感じられます。

8月
J.S.Bach
ゴルトベルク変奏曲BWV988より
第1変奏、第18変奏

他20曲程度

July  2023

7月

Scarlatti  piano sonata
K455 g-major  k466 f-mall

Ravel sonatine
第三楽章

他10曲程度


今月も勉強があり、時間がなかなか取れなかったのですが、
気分的な事情もあり、f-mallの曲を練習してみました。

スカルラッティのk466は、心の奥底までしみるような
名曲であると同時に、シンプルがゆえに、細部までの
気配りが必要であることを実感しました。

ラヴェルの三楽章は、技巧を中心に練習し、
心を「無」にすることができ、少し進展したように思います。

June  2023


今月は勉強からしばし解放され、
ソナタをさらいました。
他にも、モーツァルトのカルテットの楽譜をヘンレライブラリーで見つけ、
嬉しく譜読みすることができました。

シューベルトのD899は、久しぶりに弾き、
なんとなく心が洗われたような(?)
気分に持っていくことができたと感じました。

6月

Mozart piano sonata
1,2巻

Schubert
impromptu op.90-3 D899
G flat major

他20曲程度

May  2023

5月

Mozart piano sonata
kv333 B flat major

Tchaikowsky  四季
June Barkarole

他10曲程度

5月はほかの勉強があり、なかなか時間がとれませんでしたが、
下旬は、なんとかピアノに向かいました。

チャイコフスキーのバルカローレは、とても美しい曲で、
かなり久しぶりに弾くことができました。

mollの曲は、高い理性を要すると感じていて、
勉強に追われているときには
なんとなく上手く弾けるような気になります...。

モーツァルトは、洗練のため、全楽章弾くようにしてみました。

April  2023

新年度を迎え、気持ち新たに爽やかで軽やかな曲に
心が惹かれました。

0p.68-1メロディーはこの曲集全体の提示的な性質があるそうで、
長い間お気に入りですが、
毎年この時期になると、愛しい五月よ~が弾きたくなります。

先月からの流れで、手先の洗練を試みていますが、
大好きな曲で頑張ることができます。

4月

Schumann  子供のアルバムより
Mai,lieber Mai,-Bald bist du wieder da!

Ravel
Sonatina  第一楽章

他20曲程度

March  2023

3月

Debussy  ベルガマスク組曲より 
Clair de lune D flat major L.82

Bach 平均律クラヴィーア曲集1より
Prelude B major BWV868

他20曲程度

3月は時間がなかなか取れず、多忙でしたが、
最近好きになった癒しの曲に取り組んでみました。

そして、バッハは以前から大好きな曲の中の一曲に
集中してみました。

いずれも、精神が癒された上に、
手先の洗練が必要でよい練習になります。

JanuaryーFebruary  2023

少し時間ができたので、
昔学習したベートベンのピアノソナタと
久しぶりに向き合うことができました。

やすやすと弾いていた当時を懐かしむとともに、
月日の流れと、感謝の念を覚えます。

ドビュッシーは、子供の頃から
自身の安心の場です。

1-2月
Beethoven ピアノソナタ
Waldstein  0p.53 c-major

Debussy    前奏曲集1集
Le sons et les parfums
他20曲程度

December 2022

12月

Bach 平均律クラヴィーア曲集
第一巻 16番 g-moll

Elgar
Salut d'amour op.12
他20曲程度


今年の最終月に、
何を弾くことになるのかと
自分自身でもわからなかったのですが

数十曲練習で弾いている間に、
なんとなく何度も弾いて練習に至ったものです。

mollを普段あまり好まないのですが、
改めて美しい曲だと感じました。

November 2022


私の場合、
練習のみならず、表現をするということは、
自己と向き合うことでもあります。

何を弾きたいと思うかによって、
自分のコンデションを知ることもできるような気もします。

自己治癒力 に関心があり 自分で臨床研究等もしております。
時間が取れないことが悩みの種です。。

11月

Bach 平均律クラヴィーア曲集 
第一巻 23番 H-dur

 Mozart Piano Sonata  
kv576  D-dur
他20曲程度。